C1.次のステージ

  • 2019.08.21 Wednesday
  • 15:49

JUGEMテーマ:教育

 

 その後、大学に戻って生活をしたが、すべての面で気が抜けた毎日が続いた。大学は西三河と東三河の中間地点にあり、雰囲気は悪くはなかったが、大いなる田舎であった。70年安保のなごりの立看はあったが、大部分の学生は興味はなさそうでしらじらしかった。高校時代とまるで平和な世界がそらぞらしく思えた。

 

 澤田さんのこともあり、人を本当に好きになる・愛するということに関しても虚しさを感じるようになり、本当の自分がどこにあるのかわからなくなっていた。

 澤田さんや宗教に影響されて、教育の思想・哲学科に入ったものの何か実体となる確かな手ごたえがない。こんなことだったら、実社会で役に立つ経済を追求した方がいいのではとも思うようになりはじめていた。

 

「そうだ、東京へ行こう!」

そう思い立って1年の冬に実行に移し始める。高校時代の友人で東京と横浜に下宿しているスズキや安井を頼って、様子伺いをしに出かける。

 安井は横浜国大に受かっていた。横浜まで行って彼の下宿に泊まり込みで押しかけ、横浜の学生生活の様子を聞いた。安井は…

「そりゃ、都会の大学にあこがれるのはわかるけれど…でも、うちの大学だってそんないいもんじゃないよ」

「うちの大学でも学生セクト争い激しくってね。大学の正門のところで内ゲバがあってさぁ。ゲバ棒で学生が叩きのめされて、頭がい骨陥没で目の前でたたき殺されたのを見たよ。あんなのひどいもんだよ!」

 

 東京のズズキの下宿にも転がり込んだ。散らかった部屋に泊めてもらった後で、下宿を探す。月額3000円くらいの下宿があったので見に行くと、普通の家の階段の下の隙間のようなところが寝床になっていてそこから這い出して生活している苦学生を見る。まるで現代の木造家のカプセルだ!「そうか、こんな生活もあったのか」と感心しながらも東京生活を画策する。

 

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 そんな話を見聞きしながら、親に察知されて反対され最終的には名古屋の南山へのニセ学生としての編入を決めることにして赤シャツ物語がはじまることになる。


 南山での人形劇生活、そして教育大に戻っての人形劇サークルを経て同年代と遅れて卒業し、教師としての道を歩きはじめるのである。

C2.採用試験

  • 2019.08.24 Saturday
  • 14:18

JUGEMテーマ:教育

 

 半年遅れの卒業であり、教員採用試験を受けることになる。今は教師になるには狭き門となっているが、当時の教育大生は、ほとんど教員になることができた。1次試験が合格すると面接となる。面接時に次のようなことを聞かれた。

「君は、へき地教育をどう思うかね?へき地に回されたとしてもやっていけるかね?」

 

”都会での教育よりはへき地教育でしょう。24の瞳みたいな教師ってかっこいい!”

 ただ、それだけの理由で望むところですと応えてしまった。

 

 半年遅れの卒業なので、地区外の学校での産休補助の講師の仕事があるとのことで、豊明の中学校に講師として行くことになる。中学の講師になるときに豊明の教育委員から、「君は若いねぇ。こりゃ女子生徒にもてもてになるよ。気をつけなさいよ!」とニヤリとされた。

 ”そんなこともあるのかなぁ”といぶかしがりながら、社会科の講師となった。女子生徒にはもてはしなかったが、社会科の世界史の授業でいきなり、”ゲルマン民族の大移動”の単元から教えることになる。

 ゲルマン民族の大移動は知識として知っているがよーく考えるとなぜ古代の民族が4,000kmも5,000kmも400年もかけて移動し続けたのか?そう思うと何も生徒に教えられない!今のように交通手段があるわけでもないのに何百万人の人たちが400年もかけて西へ西へと移動するのだ。学生あがりの自分に教えられない。教科書の解説書を見ても書いてない。

(この感覚が教育の本質だと思っている。当時はわからなかったが教師が生徒に伝えるのに本質のことを知っていない。知っていないまま知識だけ詰め込んでいく。くしくも最初の段階で教育の問題にぶち当たっていたのだ)

 

 タイミングよく業者が職員室に世界史百科事典を売りつけに来た。1セット12万円もする。給料がもらえるようになるということで、即、購入すること決め、即決してしまう。

 その事典が届いた頃にはその単元は終了し、生徒にはただ単に西暦300年から700年にかけてゲルマン民族が大移動したそうな…としか教えられなかった。(これでは教科書の字ずらを読んで記憶しなさいと言っているのと同じ)この本は、それっきり積どく本として本棚を飾り、ほとんど目を通さない事典となってしまった。写真や図柄は多用されていたが中身の文章を読んでも理解できなかったからだ。

 

 中学の教員生活において、最悪のスタートを切ったのであった。この中学で教鞭をとるのは3学期の3か月弱。そこが終わると今度は日間賀島の小学校に赴任することになる。当時、へき地の学校に赴任することは教員たちの中では避けられる傾向にあった。自分の日常の生活を捨てて赴任しなければならないからである。

 しかし、自分はその意味がよくわかっていなかった。単純にへき地の純朴な生徒たちと触れ合えるのでいいと考えていた。人形劇クラブで赤羽根や稲武の小学校を回る感覚でしかなかったので、望むところだという意気込みで島に乗り込むことになる。

C3.島への赴任

  • 2019.09.03 Tuesday
  • 14:47

 知多半島の先、師崎から島にフェリーに乗って赴任することになる。師崎に軽トラックで荷物を運び、リヤカーに載せて布団など生活一式を載せてフェリーに乗る。島の中は当時、普通車は走れなかった。

 プォーという汽笛とともにフェリーは出港する。篠島、日間賀島と順に廻ってそれぞれ15分程度で港に着くのだが、やはり陸を離れるとなると独特の哀愁がある。日間賀は西港と東港とあって、それぞれ集落が別れている。自分の住むのは東港集落にあるボロボロの平屋の町営住宅だった。家の前に大きな木が立っていて、昼間でも部屋を薄暗くさせるのでモチモチの木と呼んでいた。

 玄関の入口を開けて部屋の中に入ると…部屋の片隅に大きなムカデの死骸が…。いやぁたまらない、ムカデが出るんだぁ…。掃除をし始めると雨戸のところに手のひらほどの大きなクモが…ギャァーーーッと声を出してしまった。

 子どもの頃から大きなクモが苦手であった。すぐにほうきで叩き殺そうと思ったが思いとどまった。”気持ち悪いがクモは悪さをしない。ムカデは刺すので害がある。どちらがいいか…うーん” とうとうクモを殺すことを止めてクモにムカデを退治してもらうことにした。おかげで4年間島にいることとなったがムカデに刺されることは免れることとなった。

 島ではムカデの被害はなかったが同僚の吉田先生が暑いのでパンツのゴムのところに手を入れて歩いていたところ、木の上からムカデが落ちてきてパンツの中に入ってしまうという事件があった。

 

 島の小学校は1学年2クラス、1クラスは26人で通常の小学校より人数は少ない。へき地の学校はそれだからいいとたかをくくっていたが、実際は人数が少ないからやりやすいというそんなものではなかった。最初の担任は3年生の受け持。小学校の3、4年生といえばギャングエイジと呼ばれ、集団で徒党を組んで最も教師の言うことを聞かない。

 担任となって、生徒たちにこちらのいうことを聞かせようと大きな声を張り上げて授業をしたものだから、最初の1週間でさっそく喉が痛くなった。島の生徒たちは元気がよく、ここに赴任している間に声をからして声が出なくなる同僚の先生が2人もいたくらいだった。

 

 島での生活は、土曜日になると炊事のおばさんがつくるカレーライスを食べて家への帰り支度。船に乗って師崎に渡り、車で家まで帰ってくると午後4時過ぎ。日曜日は、夕方3時にもなると河和に向かって車を出し、河和から船に乗る。約30分の船旅だが、それを繰り返していると1週間の島の生活が待っていると思うとなんとも息苦しく、監獄島へ送り込まれるような気分になったものであった。

C5.島の教員生活

  • 2019.09.04 Wednesday
  • 15:18

JUGEMテーマ:教育

 

 島民はおおむねのんびりとしていて、島の子供たちは純朴な子が多かった。島の人たちは知多半島の師崎や半田市のことを大陸と呼ぶ。周囲4キロの島から見れば、なるほど陸地はすべて大陸である。島の子どもたちに、一番行ってみたいところと聞くと大部分の子が「半田のユニー」と応える。時々親に連れて行ってもらえる半田駅のユニーのショップが島の子たちのあこがれの場所なのだ。それがここに住む子ともたちの一番の都会的な場所で何でも買ってもらえる夢の場所であった。

 

 「にっぱで体育の準備せな、あかん。先生は、野球好きずら?おらぁ、準備手伝っちゃるずら」島の人たちの言葉は独特で、聞いたことのない方言が飛び交う。にっぱというのは”急いで”という意味だ。どうもここの言葉は渥美半島を経由して静岡の言葉が入ってきているようだった。

 

 教務に大柄で頭のはげた南というのがいた。1週間後授業を見に来るというので参観に来たが、後でことごとく苦情と注意をされた。

教室の掲示物が早く整備をしろ!

学級目標の字が「挨拶」になってる!

習ってない漢字を使うな!

生徒への言葉づかいがなってない!

学生気分を早く捨てろ!

 

 これがことあるごとに自分のやることに文句をつけてきた。こちらも慣れないためしかたがないのだが、挨拶という漢字に意味があると思って書いたのに文句を言われるなんて…なんだかムカッとした。内心、赤オニとあだ名をつけることにした。

 

 教員の歓送迎会が島の旅館で行われた。校長、PTA会長、教員全員が座り、夕暮れ時にお膳が並べられて新鮮な魚介類が並んだ。校長がにぎにぎしく、長い挨拶をしているとお膳の上に並べられた竹網皿にもられた車えびに夕陽が当たり、泡を吹いてピクピクと動きだした。新鮮でイキイキなのだ。内心、あっと思ったが、とうとうその車エビが飛び跳ねて畳の上に飛び出した。

 拾おうとして手を出すとまた嫌がって飛び跳ねる。同じ新任の近ちゃんとククッ、ククッと笑いをこらえて校長の訓辞を聞かざるをえなかった。赤オニに渋い顔をされて睨まれた。

 

 教頭に特攻というあだ名の個性的な人物がいた。歓送迎会で若い教師だけ集めてこう言った。

「俺はなぁ、いつもふところに辞表を持っている。特攻で死にそびれたからだ。教員なんてしかたなしにやってるんだ。これはいかん、こいつはおれの美学に反すると思ったらいつでもこの辞表を校長に叩きつけるつもりだ。お前たちもそんな覚悟で仕事しろ!」

C4.最初の事件

  • 2019.09.05 Thursday
  • 16:44

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 島といっても大陸の学校と同じような問題は起きるものだ。クラスの中でどちらからというとみんなと浮いた存在になって、仲間外れにされている子がいた。

 授業中、何気ないやり取りの中で突然その子が隣の子と言い合いを始め、怒って教室の外へ飛び出していった。原因は消しゴムを貸すとか貸さないなどのやりとりから起きたことだ。飛び出したのでほっておくこともできず、他の子を自習にさせて追いかけた。

 彼は教室を飛び出し、校舎を飛び出し、学校の裏のオリーブ園に逃げ込んだ。当時、日間賀島は観光のためオリーブ園を造り苗木を植えていたのである。3年生といえども追いかけても逃げ足は速くつかまることなどできない。

 あきらめて学校に戻り、授業を再開。昼頃には逃げ出した子は教室に戻ってきたが、後で教務の赤オニに大目玉!

「しっかり生徒を把握せんか!」と叱られることになる。

 

 外で体育の授業をしようとみんなを整列させていたときに、3人の生徒が10分ほど遅れて運動場へ。みんな並んで待っていたのにどうしたのだと聞くと教室で3人でふざけて遊んでいて遅れたという。みんなを待たせて平然としている態度が悪いと思い、ほほをパシッと平手打ちをしてしまった。(今なら体罰で大問題になるところだが…)

 校庭の隣は島の西港と東港を結ぶメイン道路が通じている。そのときたまたま、生徒の父兄が通りかかった。

 それを見て、その父兄が私に言うには…

「先生、ありがとうございました。今どき、ビシーッと叩いて叱ってくれる先生はいない。先生はいい先生だ!」

 しかった理由もその状況も問われない中で、平手打ちしたことだけが取り沙汰されてほめられるなんて何だか恥ずかしく思った。当時でもこんなことぐらいで叩いて叱るのは最低だと思っていてきちんと叱ってやれる度量がなくて手が出てしまったと反省していたのに…

 その後、島の中でその父兄から「あの先生は叩いてくれるいい先生だ」とうわさを広められ困っていた。気がつくと島中にヤマケンとあだ名されることとなる(当時、山口組の中のヤマケンと言えば、山健組の若頭として荒々しくて全国的に有名であった)

 

 3か月も立って島の生活に慣れてきたと思っていて、授業を終わって教室で翌日の授業準備をしていると突然島の駐在所から連絡が入った。自分の教室の生徒が島の中で交通事故にあったというのだ!

C5.事故の後始末

  • 2019.09.11 Wednesday
  • 16:51

JUGEMテーマ:教育

 

 職員室にいると教頭からさっそく事情を聴いてこいと言われ、生徒の家に向かった。島には車はあるがそれほど多くない。島なんかで交通事故なんかに遭うなんて?…どうしてこんなところで事故に会うんだろうと思いながら家庭訪問をした。

 家に入ると親がいて事故の事情を話してくれた。島のメイン道路に路地から飛び出したら、坂の上から降りてきた50ccのカブにぶつかったという。生徒は元気そうでけがは軽傷であった。

 

 だが、それからが大変!島で交通事故なんてめずらしかったらしく、担当の駐在が事件が少ない島なので張り切って采配を振るっていた。知らなかったが、教師というのは事件事故があると書類を教育委員会に書いて提出しなければならない。どうして事故が起きたのかだけではなく、日ごろの生活態度はどうかとか、日ごろの交通指導はどうであったかとか、性格はどうなのかとか、うんざりするほどの調書を書かされた。生徒のけがなどの心配をするゆとりと気分が湧いてこない。生徒と話しても生徒の親と話しても、本人への心配よりも書類を書くことに頭がいっぱいになった。(こんなところも教育の問題点がある)

 

 島の教師は楽で気楽だと思っていたが、とんでもない。教室で子供たちに向き合う以上にやることがいっぱいあって島の教師でも朝部活が担当されて7時からは朝クラブなのでそれに出て、授業後も部活の面倒を夕方6時までみる。夕食をとってから事務処理を片づけて翌日の授業の準備をすると夜、9時から10時くらいになる。それから、東里の教員住宅に戻って寝るという生活が1週間続く。土曜日の夕方になると島から陸に上がって家に帰るのだが、翌日の日曜の午後3時過ぎると島に向かって船に乗る。まるで監獄の島に向かって一週間監獄に入れられる気分だった。とてもじゃないけど、24の瞳のような教師生活は望めない。

 共同炊事場にテレビが置いてあって、その当時水谷豊の熱血教師やっていたが、いっしょになった同僚と見ながら、「あんなにいいふうに先生なんてできないよなぁ」と言いながら見ていた。