B1.事件の始まり

  • 2019.07.06 Saturday
  • 22:05

 話は高校時代に戻ります。

 

 世に有名な東大安田講堂事件が1969年に起き、その翌年1970年に赤シャツは高校の入学式を向かえた。その入学式で校長が「勉学を疎かにせず、諸君は大学の紛争などに巻き込まれないように」と注意を促した。ユキコのLineのコメントにあったように当時は学生と機動隊が対峙し、名古屋地方の高校生にまで学生運動を喚起するビラが毎日のように配られるというそんな不穏な時代であった。ただ、ボクらの年代には何で大学で紛争が起きているのか、全く理解できなかった。

 ボクはごく普通の高校生として毎日の生活をしていたが、クラスの生徒会の代議員をやらされていた。代議員といっても大したことではなく、ホームルームでのクラスの意見を生徒会に伝え、生徒会の決め事をクラスに伝えるただそれだけの役回りであった。

 

 ところが入学したその年の年末、高校の授業料が値上げされるという通達がなされ、生徒会がそれに反発するという気運が盛り上がってきた。生徒会が反発するのもわけがあり、赤シャツが通っていた高校は校舎はボロボロ、コンクリートの壁が大きくえぐれるように欠けていたり、教室の床に大きな穴が開いていてそこに昼食のパンの包みをねしこんだりできるような環境で、おまけに先生は年寄りばかり。それなのに授業料値上げとは何事だというのが生徒たちの言い分。

 生徒会は学校の理事会にどう対処したらいいかと悩んでいて、各クラスの代議員にクラスの意見を聞いてきて欲しいと依頼があった。さっそくクラスに戻り、ホームルームで話し合う。クラスの中でも学校環境が悪い上に授業料だけ値上げされることに対する不満の意見が多く出される。そのとき、いつもは大人しい友人の牧野が突然「それならストライキやったらどうだ!」と言った。クラスの他の連中もおおーっ、そうだそうだの声が渦巻く。

 高校生がストライキ!それは半分冗談のような甘い響きがあった。何がどうなるということもわからず、とにかくやっちゃえと深い考えも無しに言った言葉。

 さっそく生徒会の執行部に言ってクラスの意見を伝えた。「うちのクラスはストライキやれと言ってます!

生徒会の執行部も一年生がそんなことを言ってくるかと驚いた。しかし、すぐに顔色が変わって、ストライキという甘い言葉に踊っていく。「一年生がそんなことを言ってくるんだ。よし、ストライキだ!よーし、やれーっ!」すべての代議員に伝えられた。

 

 代議員の中では半信半疑の者も多くいた。特に受験を控える3年生はこんな時期にストライキなどやってどうなるかという不安もあった。ところが、赤シャツのクラスではストライキという言葉を言い出したこともあってお祭り騒ぎとなり、教師を教室から追い出してすぐにワーワー騒ぎはじめてしまった。

 一年生のクラスがいち早くやるんだということから、すぐにその動きは伝播し、2年も3年もすべて授業ボイコット、ストライキに突入。あっという間に全校ストライキの渦に巻き込まれていくことになる。

B2.全校集会とマスコミ

  • 2019.07.07 Sunday
  • 21:18

 東大の安田講堂事件も授業料値上げが一つのきっかけと聞いている。ただ、そのときのボクらの心境は学生運動のようなものではなく、学生運動を真似をするお祭りのような感じで始まった。

 当時1グラス60人弱、1学年11クラスあり、それが3学年あると全校生徒2000人弱となる。相当な人数だ。1学年なら入れるが全学年入れるところはない。明照殿という講堂に生徒会が全校集会を呼びかけたが全員入りきれず、入口に生徒があふれてみんな立っていた。立つのがいやな者は教室に戻り、校内放送で生徒会の演説を聞くことになる。演壇には生徒会役員がそして各学年の代表が次々と演説を開始。ボクも1年代表の言いだしっぺのクラスの代議員ということで演壇でアジ演説の一翼をになうことになる。

 

 演壇に立って学校側理事会の悪口を言うと全員が「おおーーっ、そうだ、そうだ」と口を揃え拍手をする。しゃべるこちらも高揚してきてさらに過激な言葉を投げかける(テレビで見ていた学生運動さながらなのです。現在の香港もこんな感じなのか…)三年生の人たちが「おれたちの受験のことは気にするな。思いっきりやれ!」と過激な意見が飛び出す。

 校長や教頭から話し合うと言って来たが、授業料の問題なので理事長でないと話さないと拒否。当時左翼系教師もいて、生徒の動きを陰ながら支援する教師すらいた。授業をするぞという強硬派の先生もいたが机や椅子でバリケードを作って職員室から教室への通路をふさいだ。もう誰にも止められない。

 

 格好のマスコミの餌食となり、「全国初、高校生による授業ボイコット、ストライキ!」新聞にでかでかと記事として載り、テレビでもニュースとされた。ところが、新聞のニュースを見てビックリ!この高校は中・高一環の私学だったがため同じ校内に中学生がいて、中学生が期末試験のため早く帰る写真が写っていて「ストライキのため早く帰る高校生」と見出しがある。

 このニュースにボクらは怒った。授業はボイコットしてたが、まじめに明照殿という講堂に集まって全校集会を一生懸命行っているときに、まるでサボって帰っていく様子として間違ったニュースで取り上げられたからだ。新聞のコメントはボクらの主張が全く載っておらず、ムチャをやっている高校生の記事となっている。このとき、初めて新聞記者がいかにいいかげんにニュースを書いているのか思い知らされた。

 

 PTA会長がやってきて説得にきたが、PTA会長も理事会の回し者と見て意見を聞く生徒はほとんどいなかった。学校の理事会は、PTA会長を抱きこみマスコミにもニセ情報を出して操っているというそんな疑心暗鬼を生んでしまった。

B3.理事長宅押しかけ

  • 2019.07.08 Monday
  • 19:07

 ストライキに突入して3日たったが事態は全く進んでいなかった。講堂に集まる全校集会も何日も続けるとだんだん飽きてくる。とうとう執行部が、理事長宅に押し掛けるかという判断を下した。人員が決められ、その中に赤シャツも入ってしまった。生徒会執行部の半数と各学年代表、そしてどうしても行きたいという有志総勢10人の人選。残りの執行部は全校集会を引き続き運営するという体制。

 理事長宅の住所を調べて10人の生徒で押し掛ける。高校生といえども10人は多すぎて迎える理事長側も警戒しビビったことだろう。

 場所は閑静な住宅街で立派なお屋敷だった。大きな門があり、いくらチャイムを鳴らしてもうんともすんともいわない。大声で呼びかけても門は開けられなかった。(この行動は現在の香港でのことで言えば、議場侵入と同様です。まして個人宅なので警察を呼ばれてもしかたがない状況でした)

 

 しかたがないので学校に戻ることに。ところが学校では全校集会に飽きがきていて多くが教室に戻り始めていた。教室に戻ってもやることがなくてイライラしていると康弘という同クラスの者が言い出した。「自主ゼミでもやるか?

 自主ゼミって何だか知らなかった。康弘「自分たちでテーマを決めて自分たちで勉強するんだ!

 

 面白いと思った。今まで教師から教えてもらうことはあっても、自分たちで勉強を進めていくということは自習と予習くらいしかなかった。それまで学校での勉強というものが苦痛で苦痛でしかたがなく面白いと思えることがなかった。

 このストライキによって自分は初めて社会との係わりというものを意識し、何のために知識を得て何のために勉強するのか、自分で知りたい内容を選んで追求していくという自我の目覚めをしたような気がしていた。

 

 だが、校内の生徒達の気運は3日目にして徐々に低下し、講堂に集まる生徒の数も少しずつ減少し、ストライキを起こしたときの情熱とパッションが低下しつつあった。

B4.ストライキの収束

  • 2019.07.09 Tuesday
  • 22:13

 ストライキ4日目を迎えたが事態は一向に変わらなかった。2学期の期末試験の時期だったが突然学校側は臨時休校にする。試験は来年の1月はじめとすると通達を出した。

 この処置に生徒会は大いに反発をする。「臨時休校にしてしまえば授業ボイコット、ストライキの意味をなくなる」という学校側の意図が明確だからだ。集会に集まる生徒数が少しずつ減少していたのが、生徒会の呼びかけに一時的に増えたがスト5日目に入って学校に出てくる生徒数が激減していった。

 自分もクラスのみんなに学校に出てくるように呼び掛けたが登校生徒数はどんどん減っていく。クラスの仲間の一人が呟いた言葉にショックを受けた。

「学校に出ていてもしょうがないし、スキーにでも行って遊んでこようかな」自分ははしごを外された気分になった。

 

 生徒会が最後に呼びかけた全校集会。ストライキ開始は2000人が熱中して集まったものだが、そこに集まったのは100人足らず。生徒会の会長は真っ青な顔をして「理事会への授業料白紙撤回の要求は今後も続けます」と言いながらストライキの収束宣言をせざるをえなかった。

 そのとき生徒間でささやかれたのは「生徒会の役員は全員学校を退学させられるかもしれないぞ!」というものだった。ボクはその様子を見て唇を噛んだ。”自分のクラスが言い出しっぺになって起きた出来事だ。それが一生懸命やった執行部につけが回って退学させられる。そんなバカな!生徒全員に裏切られた!生徒会のメンバーだけに責任を押し付けるわけにいかない!

 生徒会が退学させられるなら、自分も退学を学校側に言い出す気持ちでいた。

 

 翌年、ごく普通に新学期が始まった。さっそく期末試験となったが、試験を受ける気になれない。答案を白紙で出す。PTA総会が開かれ、生徒会の執行部と関心のあるものと親たち、そして学校側とで話し合いが持たれた。学校側は授業料値上げの訳を説明し、生徒会はストライキに至った事態を説明したが親の代表PTA会長が「君たちの不満はわかった。しかし、授業料を払っているのは君たちの親だ。父兄会からの憤懣ならわかるが、学校行かせてもらっている君たちが授業料値上げ反対でストライキをするのは筋が違うのではないか?」とキツイ発言。このPTA総会でストライキは完全に終結した。

 

 生徒会執行部は学校側から退学を言い渡されることはなかった。しかし、ボクは言いようのないむなしさを感じていた。学校側にというより、クラスの仲間や学校の生徒たちのスト後半のてのひらを返すような振る舞いに失望していた。

 二週間後、担任の岡安先生にこの学校の生徒達の希薄な気質が気に入らなかったので相談することにした。

「先生、この学校をやめて他の学校にいきたいんですが…」

 岡安先生はじっくりとわけを聞いてくれた。

「あんなストライキのような出来事が起きた後だ。君がそんな気持ちになってるのはよくわかる。しかし、他の高校に転校できたとして君が考えている気質の高校が他にあると思うか?」と問い正された。

 

 赤シャツはもう一週間、うつうつと悩みながら学校生活を続けていた。

B5.左に右に誘われて

  • 2019.07.10 Wednesday
  • 17:26

 同学年の友人の中にヨーボというのがいた。日常、飄々としているのだが痩せていて背が高く、よぼよぼしている感じなので仲間からヨーボとあだ名をつけられていた。そのヨーボが気落ちしている赤シャツを見て、民青の集会があるので行かないか?と誘ってきた。

 その頃、民青というものがどんな団体なのか知らずに誘われて行くことになる。ヨーボの兄さんは民青に入っているとのことで、生徒会の執行部も民青の人が多く、自分も民青のシンパ(民青でなはいが、同調者)だという。

 集会に行ってみるとなんとなく同意できることが多く、反戦と仲間というものを意識していたように思う。「若者たち」の映画バージョンを放映し、仲間意識を盛り上げていた。

君の行く道は、はてしなく遠い

なのになぜー、歯をくいしばりー

君は行くのか、そんなにしてまで

(若者たちの主題歌)

 

 集会の最後に「今若者たちの心はマイホーム主義に陥り、三無主義がはびころうとしています。みんなで心を一つにしてがんばりましょう」とリーダーの人が大声で訴えていた。赤シャツも気分は民青のシンパとなっていた。

(民青とは、正式名称を民主青年同盟といい、左翼全学連の母体となった組織である)

 

 その集会が行われて一週間後、今度は高校ストライキの起点となった牧野から「生長の家」というところで高校生一泊練成会というのがあるから行かないかと誘われる。何だか、よくわからなかったが他の高校生たちが集まって泊り込みをするということとヨーボの家が矢場町近くにあり、そこに近いということでヨーボと一緒に行くことにする。他の学校の高校生たちが集まってくるというのが魅力に感じられた。牧野が「他の高校の女子高生も来るからなぁ…」どうも、それが決め手だったかも…(ところが、そこはなんと高校生右翼の宗教団体だったのだ!)

 この組織には、子どもの頃からの幼馴染で同じ高校に通っていたモリ君も入っていた。親が生長の家の宗教を信仰していたからである。それは牧野も同じであった。そんな環境の中でふらふらと泊り込みで行くことになる。

 

 ここへ行くまで赤シャツは、神とか仏とかそういうものを考えたことはなかった。そんなのは昔の人が考えたことであってそんなものはないとずっと思ってきた。また、政治的に右翼だとか左翼という考え方も十分知らなかった。政治とか思想とかまったく興味はなかった。しかし、民青と生長の家の考え方に多大に影響を受け、自分の考え方が右に左に翻弄されていくことになる。それは自分のその後の生き方に様々な面で影響を受けていくことになってしまったのだ。